カテゴリー「かんだたの世界」の記事

2024年7月12日 (金)

スペイン語は会話帳のカタカナ読みで通じた。

この春に、スペインの巡礼路を、
三週間ほど歩いてきたが、
心配だったのは、コミュニケーションの問題。

巡礼路は、人里離れた田舎町ばかりで、
会うのは動物の方が多い。
通りがかった牛舎の中では、
牛がモオーと鳴くし、
羊たちは、瞳を細くして、
メエ〜〜と声をあげる。

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ニワトリは、コッ、コッ、
コケコッコ〜と雄叫びをあげるし、
門番の犬は、ワォンワォンと吠え立てる。
猫は人懐っこくて、手を見せると寄ってきて、
ニャオ〜っと甘えてきたりする。
バルの椅子に寄ってくるスズメも、
チュンと鳴いてすましている。

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なんだ、スペインと言ったって、
日本と同じじゃないか。
出会った動物たちは、
皆、同じように鳴いている。
スペインの猫が、スペイン語で鳴くわけでもない。
ただ問題なのは、人間と話すときだけだ。

スペインでは、もちろん、スペイン語が話されている。
ところが、この国にも、地方によって、
様々な言葉が話されたりする。
今回の旅でも出会った、バスク語やガリシア語は、
方言の枠を超えて、全く別の言葉のように感じる。
だけど、やはり共通語はスペイン語。
私は、この言葉を勉強してきてはいるが、
なにしろ、普段は使う機会もないし、聞く機会も少ない。
覚えるよりも、忘れる方が多い歳になってしまったようだ。

 

二十代中頃に、ヨーロッパを二ヶ月余り放浪した。
その時に、初めて、スペインという国に足を踏み入れたのだ。
なにしろ、今より弱い円を持っての貧乏旅行。
スイス、オランダの物価の高さに仰天。
ユースホステルで、買ってきたパンを齧って過ごしていた。
その時、他の国のバックパッカーから、
スペインは安いよ、という話を聞いて、
フランスを縦断して、スペインに入ったのだ。

そうしたら、私の予算でも、
安宿の個室に泊まり、レストランで二度の食事ができる。
しかも、ワイン付きでね。
そうして、スペインの南の果てまで、
巡って歩くこととなった。

何よりも嬉しかったのが、
会話が通じたことだ。
えっ、スペイン語を知っていたのかって、
そうではない。

その時に持ち歩いていたのが、
ヨーロッパを歩くバックパッカーに人気のあった、
六カ国語会話集という、小さな本。
日本語の見出し表現の後に、
英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、
そして、スペイン語の言い回しが載っている。
親切なことに、
その各国の本来の文章に、
カタカナのルビが振ってあるのだ。

だから、
ホテル(らしきところ)に行って、
「キエロ・ウナ・アビタシオン」といえば、
ホテルの人は、すぐに察して、
安い部屋に案内してくれる。
一日中開いているバルというところへ行って、
「ウナ・カニャ」と、本を読めば、
ちゃんとグラスに注がれたビール が出てくるのだ。

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スペインでは、会話集をカタカナ読みしだけで、
意味が通づる。
これは驚きだった。
フランス語や英語では、
カタカタ読みは、まず通じないと思った方がいい。
フランスのホテルの部屋の電気が消えた時、
それを伝えるのに、どんなに苦労したか。
会話集を放り出し、とにかく部屋まで来てもらった。
オランダのカフェで、一杯のオレンジジュースを頼むのに、
何回、下手な英語を繰り返したことか。

なのに、スペインでは、
会話集を読むだけで、
まあ、飲む、食う、寝る、動くことができたのだ。

いつかこの国の言葉を覚えたいものだ。
人々の優しい会話であふれかえる、
バルのカウンターでワインを飲みながら、
若き日の私は、そう思ったのだ。

、、、それがいけなった。

当時、長野でスペイン語を学ぶといえば、
ラジオ講座ぐらいしかなかった。
だけど、一人で、何の予備知識もなく、
新しい言葉を学ぶのは、とても難しいことなのだ。
皆さんも、ご経験があることだろう。

何年かして、長野の英会話学校で、
スペイン語クラスを始めると聞いた。
しめた、これで本格的にスペイン語が勉強できるぞ、
と思って、早速申し込み。
初日のクラスには、狭い教室に、
なんと、20人近くの生徒が集まっていた。
嬉しかったね。
今まで孤独に、
ただラジオと向き合っていたのに、
こんなに仲間がいたんだ。

でも、そう喜んだのも、束の間だった。

という話は、また今度、、。

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2024年5月24日 (金)

雪の峠を越えて〜スペイン、サンティアゴ巡礼

あれ、雪に変わってしまった。
これはどうしよう。

スペイン、
カミーノ・デ・サンティアゴの巡礼の道を、
アストルガという街から歩き始めて二日目。
その日は、標高1500メートルの峠を越えて、
17キロ先の町まで行く予定だった。
でも、宿泊したアルベルゲ(巡礼宿)を出て、
1時間もしないうちに、
降り続いた雨に、雪が混ざるようになった。

道は農道のような平らな道から、
坂の急な山道となっている。
しかも、真ん中を、降ったばかりの雨が、
勢いよく流れているので、
靴を濡らさないようにしなくては。

林の中を少し進めば、
片屋根のついたベンチがあり、
ここで雨具のまま一休み。
他に歩いている人もいない。
とにかく、前に向かって、
歩くより他はないのだ。

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さらに、進んでゆけば、
湿った雪が、容赦なく積もってくる。
森を抜け、舗装道路に出た頃には、
もう15センチ以上となっている。
しかも、強い風だ。

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やっと、いくつかの建物の見える集落に入っていった。
バルやレストランの看板があるが、
まだシーズンオフのこの時期は、
何処も開いていないのだ。

どうしようか。
この雪と風の中を、
あと10キロ以上の山道を、
越えることができるだろうか。
しかも、私の携帯電話が使えなくなったので、
何かあった時にも、
連絡もできないし、
自分たちの位置も知ることができない。

その時、一台の白い乗用車が、
集落の上から下ってきた。
立ち止まっていた私たちの前を通り過ぎると、
少し下で、雪の中をブオンブオンと唸らせながらUターンしてきた。
そうしてね、
運転していたおじさんが、
手真似で、ついてこいと言うんだ。
嬉しかったね、この時は。

車を停めたおじさんの後について、
吹き溜まった雪を踏み締めていくと、
たどり着いたのは、一軒のアルベルゲ(巡礼宿)なのだ。
時刻はまだ、12時前。
立ち往生していた私たちのために、
早めに開けてくれたのだね。

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道から少し離れているし、
降ったばかりの雪に、
足跡もなかったから、
案内をされなかったら分からなかっただろうなあ。

とにかく、風の強い吹雪の中から、
暖かい建物の中に入っただけで、
ほっとした。

おじさん、大きな薪を持ってきて、
ストーブの中に入れてくれる。
寝室は大部屋で、
30人ぐらいは泊まれる二段ベットがあるが、
所々に仕切りがあって、
明るく、清潔なところだ。
前日の、薄暗い、湿った感じの宿とは、
全く違っていた。

持参の寝袋を広げて、
自分のベッドを確保する。

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落ち着いたら、
ビールで乾杯。
今日はたった6キロしか歩かなかったが、
とにかく無事でよかった。

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そうこうしているうちに、
同じように、雪に痛めつけらた巡礼者たちが、
次々とやってくる。
他の施設がまだ休業中なので、
電話で確かめてからくる人が多い。

湿った雪で、靴を濡らしてしまった人いて、
用意されていた新聞紙を使って、
乾かしていたりした。
あっ、なんだ、日本と同じなのだ。

夕食は、おじさんの作ってくれた、
牛肉のステーキで、泊まった12人が一緒に食べた。
付け合わせの、ポテトの量の多いこと。
私は食べきれなかったけれど、
他の人たちは、みんなペロ。

ドイツ人なのに、アルゼンチンで、
医者の勉強をしている女性。
アメリカはフロリダからきて、
スペイン語は苦手と言いながら、
すごい勢いで話す、
これも一人旅の女性。
そして私と同年代の、
スペイン人で、俳句を作ると言うジョン。

この夜は、他の人のいびきも、
気にならずに寝られたような気がする。

次の朝も、まだ雪が降っている。
携帯電話が使えないという私たちを心配して、
ジョンが一緒に歩いてくれるという。
彼は、学校の先生をしていて、
外国人にスペイン語を教えた経験があり、
しどろもどろの私の言葉にも、
辛抱強く耳を傾けてくれた。

安全を考えて、
山の中を歩く、
本来の巡礼路ではなく、
自動車の道路を歩くことにした。
もちろん、この雪で、通る車はないが。

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道路なので、登りはキツくないが、
雪の上を歩くのは、
思ったより、応えるものだ。
それが、後ろから、ものすごい勢いで、
追いついてきた人がいた。

「やあ、いい天気だね」
そんな冗談を、明るく言う。
とても背の高い、
体格の良いご夫婦。
聞いてみれば、スウェーデンから来たのだと。
なるほど、彼らには、この程度の雪は、
チョチョンのチョイなのかもしれない。
あっという間に、吹雪の中に消えてしまった。

標高1500メートルには、
鉄の十字架と呼ばれるモニュメントが建っている。
ここに、自分の暮らす場所の石を、
願い事を書いて置くといいという。
そんな、想いのこもる場所なのだね。
だけれども、そこは、風の通り道。
立ち止まることなく、通り過ぎることに。

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そこからは下りになるのだが、
それでも長い道だった。
ゴウゴウと音を立てた除雪車が通ると、
路面は平らになり、
歩きやすくなる。
でも、滑りやすくなるのも事実。

この雪の中で、牛が放牧されていてビックリ。

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少し下るだけで、雪の量が減っていく。
何回か歩いたことのあるジョンがいうことには、
この辺りの、山の景色は素晴らしいそうだ。

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やっと、山あいの集落に着いた時には、
雪は止みかけていた。
宿を予約しているというジョンと別れ、
唯一営業している、レストランの上の、
こじんまりとした巡礼宿に入る。
この巡礼宿も、
瞬く間に、雪の道に疲れた巡礼者でいっぱいになるのだが。

などと、日々、
緊張と驚きと、発見と後悔の連続。
スペイン、サンティアゴ・デ・コンポステェラの
巡礼の旅は、座席にしがみついて、
キャーキャー言っているだけの、
ジェットコースターに乗っているつもりでは、
あっという間に放り出されてしまう旅なのだ。

出会った人たちの、
思いもかけない善意に支えられていることもある。
特に、ずっと話し相手になってくれたジョンには感謝。
雪の中を救ったくれた、アルベルゲのおじさん。
一人で料理を作っているので、
手伝おうと入った厨房の整然さ。
雪の軒先で一休みさせてくれた小屋の、
子犬と、鳴き声しか聞こえなかった猫。

そんな語り尽くせない経験で、
とても贅沢な時間を過ごした旅だった、、かな。

 

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2020年5月17日 (日)

何かが、変わっていくかもしれない。

未だに営業自粛が続いている。
まだまだ先が見通せない様子。
営業できるようになるには、
相当時間がかかることを覚悟しなければならないだろう。

 

みんなが行動を自粛して、
感染者が減ったところで、
この病気そのものがなくなる訳ではない。

 

この病気への確実な治療法が確立される。
ワクチンなどの予防法が広く行われる。
多くの人が、この病気の免疫を持つ。

 

そのようにならない限り、
今まで通りの世の中に、
戻れないだろうなあ。

 

百年近く前の関東大震災では、
東京の街は大打撃を受けた。
飲食店の多くは、廃業せざるを得なかったそうだ。
多くの料理人が地方に帰ったので、
東京の料理が、全国に広まるきっかけになった、
という説もあるそうだ。

 

そば屋の世界では、
この後に、製麺機が一気に普及したという。
再建を機に、合理的な営業を目指したのだね。

 

太平洋戦争中も、
飲食店は営業できなくなった。
戦後になっても、
数年間は食糧難が続いたそうだ。

 

そば屋はそば粉が入らず、
配給の小麦粉でうどんを打って、
店を支えていたという。

 

この時に広まったのが混合機、
つまりミキサーだ。
この器械がないと、営業の許可が下りなかったという。
かくして、そばの世界から「手打ち」が消えてしまったのだね。

 

また、以前のようなそばの専門店ではなく、
うどんも、丼物も置くような、
広い意味での食堂、
という、そば屋が増えたのだそうだ。
時代の変化に対応して行ったのだね。

 

さて、今のこの状態の中でも、
忙しい仕事はあるようだ。
また、多少は支障のあるものの、
業務を続けられている方もいらっしゃるだろう。

 

でも、飲食店は手も足も出ない。
でも、悶々としている訳にもいかないので、
少しはもがいてみることにしよう。

 

この世界的な災難の後には、
私たちの意識や行動が、
大きく変わるかもしれない。
世の中のしくみも、世界の力関係も、
変化を見せるに違いない。

 

そんなことを考えていると、
毎日が、結構忙しい、、、のだ。
まずは、歩き回って、身体を鍛えておくことにしよう。

 

ということで、近くの裏山歩き。
そこから見えた鹿島槍ヶ岳です。
登山もしばらく自粛ですね、、、、。

 

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2020年4月29日 (水)

営業自粛で毎日「そばニラせんべい」ばかり食べています。

新型コロナウイルスの拡散防止のため、
営業自粛を続けている。

 

愚痴を言っていてもしょうがないので、
毎日家で、片付けなんぞをしながら過ごすことになる。
畑仕事をしたり、庭の手入れをしたり、
時には裏山(?)への散歩なんぞをしていて、
なにやら、毎日忙しい。

 

そこで、自宅で食事をすることになるのだ。
畑で、今の時期の採れるものといえば、
ニラばかり。
それもたっぷり。
それに、仕入れたものの、使えなくなったそば粉が、
これもたっぷりとある。

 

そこで毎日のように、
ニラとそば粉で「そばニラせんべい」なんぞを作っているのだ。

 

先日Facebookでそれを紹介したら、
どうやって作るのかと、ご質問をいただいた。

 

そこでレシピを紹介。

 

最初に知っていただきたいのは、
「ニラせんべい」というのは、
長野県の北部、
北信地方と呼ばれる地域の郷土食なのだ。

 

小麦粉を水で溶いて、
刻んだニラを混ぜて、ほうろく、
いや、今はそんなものはないから、
フライパンで焼いただけのもの。
「薄焼き」ともいうらしい。

 

甘醤油や甘味噌をつけていただいたり、
最初から、生地に、味噌味なんぞをつけたりする。
ちょっと、小腹の空いた時に食べる、
おやつのようなもの。

 

そんな、長野県人なら当たり前の食べ物を、
小麦の代わりに、そば粉を使っただけのこと。

 

レシピらしく材料から。
そば粉    80グラム
ニラ      二束分ぐらい
そばつゆ     80ml
水         80ml

 

1、ニラを洗って(畑で採ったものは、外葉をとります)3、4センチに切る。
2、ボウルに入れたそば粉に、水を加える。
 ダマになりやすいので、よくかき混ぜながら、水を少しづつ加えるように。
3、そばつゆを加えて混ぜ、さらに、ニラを入れてかき混ぜる。
 ニラの量にもよりますが、この時、少しトロっとした感じの方が焼きやすいので、水を加えて調整します。

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4、フライパンに、油を引いてから、中火にして、3の生地を流し込みます。
 蓋をして3分ぐらい焼き、表面が乾いてきたら、ひっくり返して2分ほど焼きます。
 焼き時間は、生地の厚さで調整してください。
 小さなフライパンの場合は、二回に分けた方がいいかも。

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5、まな板に乗せて、ピザのように8等分に切ります。
6、甘味噌を塗っていただきます。

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あっ、甘味噌を作っておかなければいけませんね。
味噌、砂糖、みりんで煎りつければ簡単にできます。
私は、今の季節なので、自家製の蕗味噌でいただいております。
お好きな調味料で召し上がって頂ければと思います。

 

本来はおやつなのでしょうが、
私なんぞは、シッカリと昼食としていただいております。
やはり畑で有り余っている、サラダ野菜とともにね。

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まだまだ営業再開には、
時間がかかりそうですが、
日々、気持ちを途切らせないように、
励みたいと思います。
皆さんもお大事に。

 

 

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2020年4月 4日 (土)

ペンギンはダチョウに追い抜かれる。

世の中は、どうしようもない状態が続いている。
飲食店は、どこも大変なことでしょうね。

 

で、手持ちぶたさでじっとしてもしょうがないので、
この時間に、少し、体の調子を整えることに。

 

実は、数年前から、心臓の脈の気まぐれに悩んでいたのだが、
昨年の冬に、あまりにひどくなったので、
行きつけの医者に見てもらった。

 

いろいろ調べたが、
病的なものではないそうだ。
このような不整脈の原因は、
加齢の他にもいろいろとあるようだが、
普段の生活習慣の影響もあるらしい。

 

日々の慢性的な睡眠不足も、
その中の一つらしい。
そこで、毎日五時間の睡眠では身が持たない、
ということで、今年からは、夜の営業は取りやめ。
昼のみの営業で、
しかりと、睡眠時間を確保させていただくことにした。

 

今は、いい薬もあるから、
あまり心配しないように、、、
との、先生のお言葉。
そして、最後にキメの一言。
あっ、もう三キロか五キロぐらい、痩せたほうがいいよ。

 

もう先生。
ニコニコしながら、どきっとする事を言うのだから。
それこそ心臓に悪い。

 

確かに、店の中で立ちっぱなしで、
働いているけれど、
全身の運動をしているとは言い難い。
畑仕事に行けるのは、
週に一度だけだ。
山登りだって、年に五、六回しか行けない。
それも、亀のようなノロ足で。

 

この運動不足をなんとかしなければ。

 

だから、仕事が終わった夜に、
街を歩くようにした。

 

ご存知のように、
ただ、漫然と歩いているだけでは、
あまり運動効果はないと言う。
それなりに、早く歩くことが大切だそうだ。
だから、長野の街の中を、せっせと
歩くことにする。

 

どうも私の親戚に、ペンギンがいて、
その血が受け継がれているようだ。
一生懸命に歩いていても、
よちよちとしか歩けない。
速い人は、スタスタと追い越していくのだよ。

 

先日は、たまたま、県庁の退庁時間と重なった。
県庁の皆さん、揃ったように黒いカバンをぶら下げて、
早足で、歩いていかれる。
それが速いのだね。
たちまち、追い付かれ、
追い越され、
離されてしまうのだ。

 

私と同じような小柄な女性も、
携帯電話を見ながら、
腕も振らずに追い抜いていく。
きっとこの人たちは、
ダチョウの親戚なのだろうなあ。

 

1日に1万歩以上歩くといいと言うが、
これは大変だ。
店から、善光寺にお参りして、
長野駅までくだってきて、
また店まで戻れば小一時間はかかる。
それでも歩数は七千歩ぐらい。
ええっ、そんなものなの。

 

それでも、
これを習慣としていくことが、
大事なのだろうなあ。

 

それにしても、
長野の夜の街は静かになっている。
ここのところの情勢で、
特にそうなのだろう。

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街を歩いてみれば、
知らない店ばかり、
ずいぶんと増えている。
こんな店もあるのだなと、
驚かされることもある。
みんな、がんばっているんだね。

 

ちなみに、
私は「歩く」ことをしているので、
「飲み」と言う帽子はかぶっておりません。
誤解のありませぬように。

 

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2017年4月25日 (火)

ただいま、胃のピロリ菌除菌中。

またしても、個人的な話題で申し訳ないのですが、、。

大腸の検査をしたので、
これを機会に胃の方も診てもらうことにした。
なんとなく、胃のあたりが、
重たいような感覚があったからだ。

ということで、
上部消化管内視鏡検査なるものを受けることにした。
要するに、胃カメラを飲むことだね。

この検査をするのは十数年ぶり。
先生が麻酔をしますかと聞くので、
お願いしますと答えた。
以前に、胃カメラを飲み込む時に、
ずいぶん苦しかったからだ。

麻酔といっても、意識がボオーとするぐらいだと思っていたら、
注射を受けて、間もなく意識を失い、
看護婦さんに起こされて眼を開けたときには、
もう検査は終わっていた。
何の痛みもなく、本当に胃カメラを入れたのかな、
などと、疑いたくなるような気持ちだ。

しばらく休んでから、
医師の説明を聞いた。
「診たところ、慢性胃炎ですね。
 あと、逆流性食道炎の痕跡があります。」
胃炎とは、胃の粘膜がただれていることなのだそうで、
写真を見せていただいたが、よくわからない。

なんでも、胃の中に住むピロリ菌の影響かもしれない、
とのことで、尿の検査をしたら、
ドンピシャリ。
医師のいうことには、
この菌がいても、
放おっておいても大丈夫な人もいるし、
胃がんに進む人もいるという。

今はいい薬があるので、
その、ヘリコバクター・ピロリ菌というやつを、
かなりの確率で、取り除けるという。
副作用のリスクもあるが、
その除菌薬を飲むことにした。

とにかく7日間、
連続して薬を飲み続けないといけないらしい。
抗生物質なので、腸などにも影響があるかもしれないそうだ。

ということで、
只今、ピロリ菌除菌中。
5日目だけれど、今のところ、
副作用もなく過ごしている。

話は変わるが、
私はこの頃、自分で勝手に、
「六時間眠ろうキャンペーン」を試みている。
少なくとも、そのくらいは眠らないと、
体によくないと言われているからだ。

ところがこのキャンペーン、
達成率は、30%まで届かない。
つまり、定休日も含めて、
月に7日か8日しか六時間以上寝ていないのだ。
細かい仕事に追われて、
どうしても、五時間を切る日もあるような状態。

医師のいうことには、
十分な睡眠を取ることも、
胃の健康につながるのだそうだ。

私も60歳を超えて、
無理の出来ない体になってきている。
店の作業の能率を上げ、
一日の仕事量を、ぐっと搾る努力をしないといけないねえ。

体がいい状態だからこそ、
いいそばが打てるのだから。

、、て、なんだか、年寄りのぐちになってしまった。


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2017年3月30日 (木)

入院して、久しぶりにゆっくり。

いやいや、今月は、四日間の入院をした。
といっても、
具合が悪いわけではない。
とにかく安静が必要とのことで、
点滴と、釜を洗った湯のような重湯の食事で、
ベットの上で過ごしていたのだ。

昨年の夏の市民検診で、
大腸がんの発見のための、
便の潜血検査に反応が出てしまった。
店の近くの病院で、
大腸の内視鏡検査を受けると、
なんとまあ、5ミリほどのかわいいポリープが見つかった。

その病院では、切除が出来ないとのことで、
他の病院を紹介された。
最初はある大病院を紹介されたのだが、
あそこは、人が大勢居て、
落ち着かないことは経験済み。
そこで、
前に女将が入院した小さな病院にいくことにしたのだ。

大腸の内視鏡検査は、
ご存知のように、
腸をきれいにするために、
二リットルの下剤を飲まなければならない。
そして頻繁にトイレに通わなければならないのが、
なんともうっとうしい。
しかし、内視鏡を使ったポリープの切除手術そのものは、
それほど痛みも苦痛もなく、
結構簡単に終わってしまった。

手術中、腸が動くというので、
モニターが見えない方向に向けられてしまったのが残念。
でも、あとで写真で見せていただいた。
切ったあとは、
洗濯ばさみのような3つのクリップで、
出血しないように留められていた。
ずいぶん細かい作業なのだね。

私のポリープは、
キノコ型ではなく、富士山型なので、
後で、出血しやすいとのこと。
だから、
ベットの上でひたすら安静に努めていた。
もっとも、動けないように、
ずっと点滴をされていたが。

お陰で、
久しぶりの読書三昧。
持っていった電子ブックで、
藤沢周平と司馬遼太郎。
あっという間に、四日間が過ぎてしまった。
もう何日間か、入院していたかったなあ。
何しろ、
こんなことでもないと、
ゆっくりと本を読む時間もないのだ。

大腸に出来たポリープといわれる突起は、
放おって置くと、ガンになる可能性が高いと言われている。
だから、内視鏡で取り除けるうちに、
手術をしておいたほうが良いのだね。
その方が、腹を切るよりは、
体の負担が軽くて済む。
ちなみに私のポリープは、
癌になるタイプではなく、
単なる出来物だったと、
あとの検査でわかった。

大腸がんは、早めに発見されれば、
それほど大事にならない。
女将も、もう十年近く前に見つかり、
腹を切って取り除いた。
よいことか、悪いことか知らないが、
いまだにピンピンしている。

とはいえ、
不幸な話もずいぶん聞いている。
毎年、りんごを送っている遠方の友人は、
大腸がんでなくなったと、
その妹さんから突然の電話を頂いた。
私より、十歳ぐらい若かったのに。
あるそば屋さんの奥さんは、
体調が悪かったのに我慢をして、
気がついたときには手遅れだったのだそうだ。

検査は、たしかに抵抗のある方もいるかもしれないが、
ぜひ、受けたほうが良いだろう。
病気になって苦しむのは、
本人ではない。
実は、本人の周りの人達なのだから。

入院三日目にして、
やっと、ご飯粒の見えるおかゆの食事になった。
食べ物と腸の関係、
不思議だなぁ。

 

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2016年2月22日 (月)

真田幸村と、兄、信之の会った場所は、、、。

なんでも、テレビの影響で真田幸村(信繁)が人気なのだそうだ。
幸村といえば、家康が豊臣方を根絶やしにしようと仕掛けた、
大阪冬の陣、そして夏の陣で活躍して、名を上げた武将だ。
のちのちまでも、尾ひれがついて、
大きな話となって伝えられている。

そして、兄弟で、
従う主人を分けた、真田家の物語も興味を引くところ。

池波正太郎の「真田太平記」によれば、
大阪冬の陣で一度和平になった時、
幸村と、兄の信之が十数年ぶりに会ったという。
徳川方に付いた信之は、幸村を説得するために、
極秘のうちに、
その機会を作ったそうだ。

かたや、家康の養女を妻にした兄、信之、
かたや、若い頃に仕えた秀吉に義理を通そうとする弟、幸村。
その立場の違いははともかく、
久しぶりの再開に、
兄弟としての情を通い合ったという。

ともすれば、これが知られると、
双方に、相手に繋がっているかもししれないと、
周りのものに指をさされるかもしれない。
だから、この会見は、
何事も漏らさぬ警戒のうちに行われた。

その場所は、京都の東山の、あるお屋敷。
ひっそりとした一角で行われたのだね。

さてさて、話が長くなった。
先日の旅で、京都を訪ねた時に、
東山界隈をウロウロした。
そして、
名のある料亭が、この地区のたくさんあることに驚いた。

東山は、京都の繁華街、
四条河原町からも近い。
もちろんその間に祇園もある。
ちょっと路地裏を歩けば、
一見して高級な料亭の看板を、
それも、ほんの小さなもので、
見過ごしてしまうような看板を、いくつも見かけた。

このあたりで、
一枚720円ぐらいでそばを食べようか、、
なんて無理なこと。
たまに出ている店のメニューにも、
「昼の懐石六千円」等と書いてあったりする。
まあ、夜だったら二万円以上の席なのだろうなあ。

でもねえ、素晴らしいのは、
それらの料亭が、
きちんと成り立っていることだ。

よく京都の料理は高いと言われるが、
ちゃんとそれなりの価値を認めるお客様もいらっしゃるのだ。
料理のうまいまずいばかりではなく、
しっかりとした出会いを演出してくれる、
おもてなしも伴ってのことだろう。

そういえば、司馬遼太郎の「竜馬が行く」の中でも、
東山の料亭で密会する場面があったっけ。
幸村の時代とはだいぶ違うけれど。

あれだけのたくさんの料亭、お茶屋さんの中で、
日々、大きな話が取り交わされるのだろうなあと思うと楽しくなる。
祇園を案内してくれたタクシーの運転手さんが言っていたけれど、
お金があるだけでは、入れませんよ、とのこと。
ここには守っていきたい世界があるような気がする。

さて、
じゃあ、わたしも、
、、、、
看板を小さくするかなあ、、。






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2016年2月 8日 (月)

そば屋の・ようなもの、だったりして。

東京にいた若いころ、
人付き合いの苦手な私は、
よく一人で、映画や寄席に行った。

その頃上野に本牧亭という寄席があって、
ここは本来は、講談の定席なのだが、
月に何日かは落語の会をやっていた。

早目に行くと、二階の広い畳敷きの部屋には、
まだ、数人の客しかいない。
そこで、ほとんど座布団だらけの客席に向かって、
前座と呼ばれる新人の落語家が、
一生懸命話しをしている。

もちろん、覚えたての噺を、
小学生が教科書を読むように語っているので、
いわゆる、落語らしい可笑しみがないのだ。
聞いている方もひどいもので、
空いている座布団の上で、
横になって寝ている人もいる。
噺をしている前座さんに、背中を向けてね。
常連らしいお年寄りは、
後ろの方に5人ぐらいでかたまって、
世間話に忙しい。
噺が終わったって、拍手の一つもない。

それが、いわゆる真打ち、
師匠とよばれる人たちが出てくる時間になると、
座は人で一杯になる。
時には、入りきれない人もいて、
「お膝送り」の声がかかる。
つまり、座っている座布団ごと少しづつ前に詰めて、
後ろに場所を作るのだ。

噺が進むと、場内は笑いの渦。
終われば、割れんばかりの拍手。
窮屈な格好で座りながらも、
大勢の人と一緒に楽しむ笑い。
これが寄席の醍醐味なのだよね。

でも、同じ噺をしても、
どうして、前座と真打ちで、違うのだろうねえ。
落語家の芸の世界は、厳しいものだ。

なんてことを思い出したのは、
先日ある映画を観たから。
その映画は「の・ようなもの のようなもの」。
35年前に作られた映画を、
亡くなったその監督に捧げるために作られた映画。
どちらも、駆け出しの落語家の話。

35年前と、同じ出演者が出てきたりして、
ああそうだったと、楽しませる。
で、35年前に、
彼女に「下手くそ」と言われた落語家「志ん魚(とと)」は
その後、師匠と呼ばれる身になった、、、、
かと思いきや、やっぱり「下手くそ」だったのだね。
松山ケンイチはじめ、たくさんの芸達者な俳優が、
話を楽しませてくれる。
一流の役者さんて、
画面にちょっと出るだけで、
存在感があるからスゴイ。

それに比べて、
そばの世界では、、、、。
そばが下手くそでも、
商売がうまいと、成り立っていくようだ。
両方共下手くそな私は、
池の金魚みたいに、
アップアップしながら生きているのだが。

なんて、
若い時に落語から学んだことはまだまだあるのだ、、、
て話はまた今度。

雪の京都の三十三間堂。
いつもは大混雑という話を聞いていたけれど、
おかげで、国宝の仏様と、
じっくりと向かい合えた。





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2016年2月 1日 (月)

歴史がこんがらがった頭で、京都の見物。

さて、ゆっくりと楽しませていただいた京都の旅の話。

東山に高台寺という寺があり、
ここは豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまんどころ)の菩提所なのだそうだ。

その庭園の一番高いところに、
傘亭(からかさてい)という茶室があった。
秀吉の作った伏見城から移されたもので、
国の重要文化財になっている。

説明してくれた人の話では、
伏見では川沿いにあり、小舟に乗って、
この茶室に乗り入れて、お茶を楽しんだというのだ。
前のところの空いたところが、船の入る場所らしい。

Photo
ほらほら、着飾った殿様が、
船に乗って、この変わった屋根の茶室に入ってい行くのがわかるでしょう。
なるほど、秀吉たちは、そういう趣向を楽しんだのだね。
秀吉の作った伏見城と言うと、
豪華絢爛な建物というイメージがあるが、
こういう質素な茶室も好まれたわけだ。
といって、こういう茶室は、細かいところまで工夫がしてあって、
実は、すごく贅沢にできている、というような話を聞いたことがある。

千利休から始まり秀吉が好んだ茶の世界は、
様々な芸術の部門に影響を与えたという。
茶室のような建築から、茶道具、焼き物、庭造り、書画、衣服など、
茶の席に合わせて作られるようになったのだろう。

この時代、焼き物で名を残した古田織部、
その弟子で、庭造りの小堀遠州などの、
まあ、趣味人というような大名も現れている。
この高台寺の庭園も、遠州の作と言われているのだね。

あとから行った建仁寺の中庭も、
ぱっと見たら、遠州の作かと思ったら、
それを倣って、近年に作られたものだそうだ。
それにしても、遠州好みの石の立て方が、
思わず座って茶を、、、いえ、できればお酒を頂きたいなあ、
という、深〜い気持ちを起こさせる。
こらこら。

Photo_2

ここ建仁寺には、あの有名な「風神雷神図」があったそうだ。
今は国立博物館に預けてあるが、
精巧な複製が置かれている。
それを描いたのが俵屋宗達だね。

その宗達の描いた板絵が見られるのが「養源院」というお寺。
有名な白象や獅子の絵を、すぐ間近で見ることができる。
そして、このお寺のもう一つのウリが、
伏見城の血天井ということになる。

あれ、また伏見城が出てきたぞ。

何しろ秀吉の前後の時代の歴史を考えると、
あまりに複雑で、よくまとまらない。
この時代、あまりに多くの人が出てくるから、
頭のなかは、こんがらがったままだ。

でも、いいものを見る目は持っていたいね。
何百年も前から、人々が大切にして、
育んできたものを、しっかりと見極める目を、
できれば持ちたいものだ。
京都って、そんなものがゴロゴロしているところなんだね。

で、こんがらがった頭で帰ってきた旅館の部屋の、
こんな設えが、ほっとさせてくれたりして、、、。

Photo_3  

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