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2016年2月 8日 (月)

そば屋の・ようなもの、だったりして。

東京にいた若いころ、
人付き合いの苦手な私は、
よく一人で、映画や寄席に行った。

その頃上野に本牧亭という寄席があって、
ここは本来は、講談の定席なのだが、
月に何日かは落語の会をやっていた。

早目に行くと、二階の広い畳敷きの部屋には、
まだ、数人の客しかいない。
そこで、ほとんど座布団だらけの客席に向かって、
前座と呼ばれる新人の落語家が、
一生懸命話しをしている。

もちろん、覚えたての噺を、
小学生が教科書を読むように語っているので、
いわゆる、落語らしい可笑しみがないのだ。
聞いている方もひどいもので、
空いている座布団の上で、
横になって寝ている人もいる。
噺をしている前座さんに、背中を向けてね。
常連らしいお年寄りは、
後ろの方に5人ぐらいでかたまって、
世間話に忙しい。
噺が終わったって、拍手の一つもない。

それが、いわゆる真打ち、
師匠とよばれる人たちが出てくる時間になると、
座は人で一杯になる。
時には、入りきれない人もいて、
「お膝送り」の声がかかる。
つまり、座っている座布団ごと少しづつ前に詰めて、
後ろに場所を作るのだ。

噺が進むと、場内は笑いの渦。
終われば、割れんばかりの拍手。
窮屈な格好で座りながらも、
大勢の人と一緒に楽しむ笑い。
これが寄席の醍醐味なのだよね。

でも、同じ噺をしても、
どうして、前座と真打ちで、違うのだろうねえ。
落語家の芸の世界は、厳しいものだ。

なんてことを思い出したのは、
先日ある映画を観たから。
その映画は「の・ようなもの のようなもの」。
35年前に作られた映画を、
亡くなったその監督に捧げるために作られた映画。
どちらも、駆け出しの落語家の話。

35年前と、同じ出演者が出てきたりして、
ああそうだったと、楽しませる。
で、35年前に、
彼女に「下手くそ」と言われた落語家「志ん魚(とと)」は
その後、師匠と呼ばれる身になった、、、、
かと思いきや、やっぱり「下手くそ」だったのだね。
松山ケンイチはじめ、たくさんの芸達者な俳優が、
話を楽しませてくれる。
一流の役者さんて、
画面にちょっと出るだけで、
存在感があるからスゴイ。

それに比べて、
そばの世界では、、、、。
そばが下手くそでも、
商売がうまいと、成り立っていくようだ。
両方共下手くそな私は、
池の金魚みたいに、
アップアップしながら生きているのだが。

なんて、
若い時に落語から学んだことはまだまだあるのだ、、、
て話はまた今度。

雪の京都の三十三間堂。
いつもは大混雑という話を聞いていたけれど、
おかげで、国宝の仏様と、
じっくりと向かい合えた。





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