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2007年11月 1日 (木)

身勝手な父親で子が苦労?でも、、

善光寺表参道の街路樹は、
この数日で見事に色付き、
葉を落とし始めた。

通りに面した店は、
この季節の掃除が大変だろうなあ。
でも、落ち葉の掃除って、
意外と気持ちのいいもの。
自分でやらないからいえるけれど、
人の落としたものではないもの。

落ち葉が風に舞う光景は、
何となく人を感傷に誘う。

ええい、まとわりつくな、私に。
せっかくの新そばの季節、
そんな感情に、浸っている暇はないのだ。

さて、人の世のはかなさを感じてしまった人。
深い深い無常感の穴に、落ちてしまった人。
そういう人が、昔、いたそうな。

昔といっても、今から800年以上前、
筑紫の国の領主に加藤某という方がいたそうな。
今の九州は福岡県辺りのことだろう。
領主として、それなりの暮らしをしていたのだが、
なにを血迷ったか、
突然、出家してしまう。

つまり、坊さんになって、
九州からは遠い、高野山に籠ってしまったのだ。

後に残された家族は、
ただ、おろおろするばかり。

やがて、十四才になったその息子、
意を決して、高野山に、
父親を訪ねていく。

きっと、一言、
親の務めを怠った父親に文句を言いたかった、、、
なんて、どこにも書いていない。

我が父恋しさに、
その幼い子、石堂丸は、
広い高野山の中を訪ね歩くのだ。

Karukayaそして、出会ったある僧に、
自分の身の上を語り、
父の居場所を問うのだ。

その問われた僧こそ、
まさに、
石堂丸の父親、そのものであった。

はるばる九州からやって来た石堂丸。
ここでめでたく親子の再会と相成るや、、
ジャジャジャジャ〜ン。

ところが、ところが、
この頑固者、ひねくれ者の父親。
仏に仕える身としては、
親子の情は邪魔になる、、
トカなんとか思って、
「お前の父親は遠い所へ行ってしまった。」
そう言うのだね。

世のはかなさを知ってしまった、
人間の強さか、薄情か。

その父親、苅萱上人と呼ばれ、
やがて善光寺のお膝元の落ち着く。

長野の中央通り、表参道にある、
かるかや山西光寺は、その苅萱上人のいわれのあるお寺。
絵解きで、この話を聞かせてくれるので、
ぜひ、お聞きを。

この写真は、その西光寺境内にある、
親子再会の像。

その後、石堂丸も仏門に入り、
苅萱上人を追って、長野に来たそうだ。
だから、駅前辺りに、
「石堂」という地名が残っているのだね。

普段から見なれている、
長野の町の風景の中にも、
そんな話が埋もれているんだね。

ええい、そんな感傷にとらわれず、
先ずは、ズズッとそばを手繰ろう。
ふわっと茹で上がった感触は、
新そばならではのもの。
世の中の憂いと、
中日の優勝と、
全く縁のない、
ハナシ、、、、、。

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コメント

はじめまして!
新田町、石堂町の由来知りました
新蕎麦、ぜひいただきたいナ・・・
12月8日に、まだ食べられますか!

投稿: tarou | 2007年11月 3日 (土) 10時50分

tarou さん、こんにちは。
ブログをお讀み頂き、ありがとうございます。
町の名前には、それぞれに謂れがあるのですね。
新そばは、今月の中頃ぐらいから長野県内産も入り、これからが本番です。
十二月でも、もちろん、おいしいですよ。
ぜひ、お寄り下さい。

投稿: かんだた | 2007年11月 3日 (土) 17時32分

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