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2007年3月31日 (土)

「そばの花」はもちろん秋の季語。

     そば洗う水で知る春湯気の中  
              かんだた

お客さま誘われて、最近、俳句なんぞを始めた私。
いまだに、何が俳句で、どこが川柳で、
交通標語との違いが何なのか、
よくわかっていない。

でも、水道の水が暖かくなってきたのは事実。

寒い季節には、五度以下だった水道の水が、
やっと十度ぐらいに上がってきた。
コレならば、手を入れてそばを洗っても、
しびれるほどの冷たさを感じることはない。

ああ〜、春なんだな。

外も見えない、
倉の中の厨房で長時間を過ごしているので、
こんなことでしか季節を感じられないのだ。

それでも、まだちょっと冷たいので、
仕上げの水で、そばを少し温めてお出ししている。
やがて、それも必要なくなるだろう。

そうしているうちに、今度は、
氷で冷やした水で、
仕上げをしなければならなくなるのだろうな。

俳句というのは季語と言って、
季節を表現する言葉を入れないといけないそうだ。
これがなかなか難しい。
独特の言い回しがあったりしてね。

ちなみに、「蕎麦掻き」は冬の季語。
春に食べても、俳句にはならないようだ。

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2007年3月27日 (火)

金力もつけたいが。

欧米人と握手をすると、
驚くほど強く握りしめられることがある。
こちらも、思わず力が入ってしまう。

恋人たちが手を握りあうのとは訳が違う。
握手はお互いの信頼を示す証。
だから、相手の顔を見て、しっかりと握るのだね。

Mano2 最近、そんな握力が、少し落ちてきたような気がして、
棚に隠れていたグリップを取り出してみた。

こんなの、昔は、50回は握れたよな。
と思って握ってみると、以外ときつい。
20回もやれば、もう手が動かない。

ほら、ずいぶん長い間使わなかったから、「グリップ」が渋くなっているんだね。
きっと。

最近は、スキーにも行かないし、水泳もやらなくなってしまった。
いかんなとは思いながらもね。
先日も登り坂で自転車を漕いでいたら、
ママチャリの高校生に、すいすいと追い抜かれてしまった。
こっちは、間借りなりにも、21段変速のクロスバイク。
ついつい熱くなって、高校生を追いかけてしまった。
この季節に汗をかくなんてね。

そば打ちは、ある程度は、体力勝負。
身体を目一杯使って、そばを作るのだ。
やっぱり、筋力のない人の作ったそばというのは、
それなりになってしまう気がする。
いつでも、ギュウギュウと力を入れるのではなくて、
微妙な、繊細な力加減をしなければならない。
そういうコントロールをするには、
充分な体力、筋力が必要なんだろうな。

ピアニストが、強い音を出すより、
かすかな、弱い音を出すほうが力がいるって言うように。

50の力が必要な仕事を、
50の力を持つ人ならば、することができる。
でも、それが毎日、だったらどうなのだろうか。

50の力が必要な仕事を、
100の力を持つ人ならば、楽にできる。
毎日だって、苦にならないだろう。
ときには、70や80の力が必要な仕事だってできる。

「手打ちそば屋」は自分の力で「そば」を作り出す仕事。
毎日、同じように、きちんとした仕事ができなければいけない。
そう自分に言い聞かせて、
体力アップ、筋力維持に努めよう。

って、私のことだね。
あっ、もう一度グリップを握ったら、30回はできた。
今度、図体のでかい欧米人と握手する時は、
しっかりと握ってやるぞ。

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2007年3月25日 (日)

「高田渡」は「山之口貘」を歌った。

新聞の週末の別刷りの特集に、詩人の山之口貘(やまのぐち ばく)のことが書かれていた。
へえ。この人、大手の新聞に書かれるほど、有名になっているんだ。

山之口貘は戦争を挟んで、昭和の前半に生きた詩人だ。
沖縄出身で、生活も貧乏であったが、その作品も貧乏をテーマにしたものが多い。

私も貧乏では引けをとらない生活をしてきたので、この人の言葉が、すっと胸に入ってしまうのだ。

代表作と言われる「座布団」。
土の上の床、床の上の畳、畳の上の座布団、その座布団の上にあるのが楽というもの。

>どうぞおしきなさいとすすめられ
>楽に坐ったさびしさよ

そう、決して卑下するわけでもなく、持論を主張するでもなく、やんわりと「持てる人」の姿を批評しているのだ。

この山之口貘の詩を、歌にして歌ったのが、二年ほど前に亡くなった高田渡。
お酒の好きな、まさに吟遊詩人的な雰囲気の人だ。

実は、私が前にやっていた居酒屋に、一度だけ来て頂いた。
酔ってはいるが、眼光の鋭い人。
知らなければ変なおじさんだが、酔っぱらうのではなく、酒と友達!みたいな飲み方をする方だった。

さて、その高田渡が歌った山之口貘の詩の一つに、「たぬき」という作品がある。
「たぬき」とは、「たぬきそば」の「たぬき」のことだ。
そう、やっとここで、そばの話に通ずるのだ。

>たぬきそばはたぬきのおかげで
>てんぷらそばの味にかよい
・・・・・・・・・・
>たぬきのその値がまたたぬきのおかげで
>てんぷらよりも安あがりなのだ

なんとも、ほのぼのしい、言葉の響き。

ここであまり安っぽいコメントを出さないほうが良さそうだね。
山之口貘が私の店に来たらどうなのだろうか。
座布団の上に座って、やっぱり落ち着かないだろうか。
私も由緒正しき貧乏を生きなければ。

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2007年3月23日 (金)

スタッフとして大切なこと

前に店を手伝ってくれていた人が、いよいよ学校の卒業で辞めることになったので、土曜日と日曜日に出てくれるパートさんの募集を、求人誌に出した。

まあ、少ない勤務時間だけれど、もし空いていれば人がいれば、料理を運ぶ仕事を手伝ってもらいたいからだ。
なにしろ「手打ちそば屋かんだた」は二階があるので、料理を持って上り下りをするのがたいへんなのだ。

そうして求人広告を出したら、、、、
男の人から、けっこう問い合わせがあった。

いえ、お客さまの相手をするのに、もちろん男の人でもかまわない。

でもね、そういう男の人たちが言うには、みんな、調理場のほうをやらせてくれというんだ。
まだ、若そうな声の方が多かったけれど、できれば、そばのことを覚えたいという。
「修行」みたいな感じで、できませんかという。

いえ、私の店としては、プロの意識を持って、お客さまを接待して頂く人を探しています、というと、それでは嫌らしい。
調理のほうをやりたいのだそうだ。
「そばの世界」を知りたいなら、そういうところから入っていく方法もあるのにね。
残念。

でも、今さらのように、そば屋に対しての、関心が高くなっているんだなと思い知らされた。

でも、私の店なんか、小さな店なので、まだまだ、そういう人を受け入れることはできないのだ。

よく、「修行中」のお弟子さんが、たくさん居る有名店がある。
しかしながら、そういうところって、たいてい、お客さまにとっては居心地の悪いことが多い。
注文の取り方も突っ慳貪(つっけんどん)だし、そばを差し出す手つきもぎこちない。
小上がりに座っても、靴も直さないようなサービスぶり。

なぜなら、「修行」している人は、自分のほうに気持ちが向いているからだ。
早くそばの技術を覚えよう、そうしたら、いつか自分でも店を持ってやろう、そう思って一生懸命、店主のほうを見ながら仕事をしている。
だから、お客さまのことなど、目に入らないのだ。

いやいや、お弟子さんが居ても、しっかりとした店も、もちろんある。
でも、ここのところ、いくつか行った有名店で、そんなことを強く感じたのだ。

そば屋というのは、お客さまあっての「そば屋」だと思う。
それぞれに、それなりの営業方針はあるだろうが、やはり、お客さまを喜ばすことが大切なことだろう。
店主を始め、スタッフ全員が、お客さまのほうを向いている店のほうが、きっと、お客さまも居心地がいいと思う。

そういう気持ちがあってこそ、その店独自の「そば屋」の世界を作っていけるはずだ。
だから、最初から、「修行したい」という、自分向きのスタッフは、たとえ有用であっても、私の店には入れたくない。

せっかく電話をしてきて頂いた若者たち(おじさんも居たけれど)には、そういうことで理解をいただきたいのだ。

あっ、
おかげさまで、手伝って頂けるいい方が見つかりました。

「かんだた」はお客さまにも恵まれているけれど、
スタッフにも恵まれているんだなあ。

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2007年3月22日 (木)

驚いた私は県外者。

ここのところ、寒い日が続く長野の町。
でも、善光寺の表参道を歩いてみると、ところどころに、お雛様を飾ってある店がある。
宿坊にも、お雛様が、お客さまをお迎えしているところもある。
ああ、雛祭りの季節なんだな。
やっと、春が来るんだな。
そんな気分にさせてくれる、お雛様。

何言っているんだい。
もう、春のお彼岸。
雛祭りの三月三日なんて、とっくに過ぎているじゃないか。

いえいえ、それは、新暦で雛祭りを迎えられる、暖かい地方でのこと。
寒さの厳しい、ここ、長野市周辺では、月遅れの、四月三日に、桃の節句を祝うのが習わし。
やっと、長い冬が終わって、春が来たことを実感する日なのだ。

さて、江戸時代の話。
その雛祭りが終わった次の日に、
雛をしまう前に、そばを供える習慣があったという。
いわゆる「雛そば」といって、広く行われていたらしい。

年越しに食べるそばと同じで、
そばは縁起ものと考えられていたんだね。
病気を追いやる「魔よけ」とか、
そばは伸びやすいので、
家運が「長く延びる」というようなことに
引っ掛けていたらしい。

長野でもそばを食べる風習があったかどうか、
周りの人に聞いてみても、
いきなり火星語で話しかけられたような顔をされるだけ。

ならば、今から新しい習慣をつくろうか。

「雛祭りには、そばを食べよう!!!」

なお、長野では、端午の節句も月遅れで行われる。
五月の下旬に、鯉のぼりが泳いでいても、
けっしてしまい忘れた訳ではないので、ご安心を。

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2007年3月21日 (水)

江戸の標準「切りべら二十三本」

Youji 切り立てのそばの上に、爪楊枝を置いてみた。
そばの細さがよく分かると思ったが、
う〜ん、そんなによく分からない。

これは、写真が悪いのだ。
カメラのせいにしようかと思ったけれど、
やっぱり撮り方が悪いのかもしれない。

実際にみると、爪楊枝よりは、かなり細くなっている。
爪楊枝の直径は2ミリメートル。
まあ、それよりは細いということは、1.7ミリぐらいか。

これはそばの断面の対角線の長さになるから、
ええと、平方根を使って、一辺長さを計算すると、、、、

(少々お待ち下さい)

、、、だいたい、1.3ミリぐらいになる。

つまり、私のそばは、一辺が1.3ミリの四角になっているはずだ。

昔から、江戸そばの太さの標準として、「切りべら二十三本」と呼ばれてきた。
「二十三本」というのは、延ばしてたたんだ生地を切る時に、一寸(約3センチ)の幅を、23本に切るということ。
ということは、切り幅は、一本あたり1.3ミリになるのだ。

なんだ、細いそばを作っていたつもりだけれど、江戸の職人の、並みの寸法じゃないか。

ちなみに、「切りべら」とは、生地の厚みより、切り幅の方が小さいこと。
つまり、生地の厚さを、1.5ミリか1.4ミリにして、切る時は、1.3ミリにするような麺のこと。
だから、断面は少し長方形になる。

これは、薄く延ばすほうが手間がかかるので、職人の「逃げ」でこう決められたのだといわれている。
なるほど。
でもね、麺を長方形に作るのは、また、それなりに意味のあることなんだ。
これについては、また機会を改めて。

さて、江戸の職人の標準だった「切りべら二十三本」。
それより、さらに細いそばの標準もあったという。
江戸っ子は、粋に手繰れる細いそばを求めていたのだね。
私も、私の神経に合わせて、
もっと細いそばをつくろうかなあ。

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2007年3月18日 (日)

酸性?アルカリ性?

ある観光地へ行く道沿いに、一軒の食堂があり、
そこに掲げられている看板がこれ。
「何でもうまい、そば、うどん、ラーメン!」

なるほど、長いものなら、何でもやっているんだね。
「ラーメン」のあとに、いつ「パスタ」が付け加えられるのか、
楽しみにしているのだが。

さて、小さな食堂だから、きっと、
そばも、うどんも、ラーメンも、同じ釜で茹でるのにちがいない。
でも、そばならともかく、
ラーメンを茹でたあとで、うどんを茹でるのはどうなのだろうか。

もちろん、茹でるのに時間のかかるのがうどん。
たいていの店では、先に下茹でをしているはずだ。
でも、温めるのに、ラーメンの後のお湯を使って、
大丈夫なのかなと、ちょっと心配になるのだ。

というのは、うどんを茹でるには、
一般に、弱酸性の水を使うといいという。
そうすれば、うどんのたんぱく質が固まり、
煮くずれしないのだ。
逆に、アルカリ性になっていると、
肌荒れが激しい、
つまり、つやのない、角の欠けたうどんになってしまう。

ラーメンに含まれているカンスイは、アルカリ性。
だから、この店のうどんが
ちゃんと茹でられているのか、
看板を見ただけで、いらぬ心配をしてしまうのだ。

きっと、それなりの工夫をしていることと思う。
でも、小さな食堂だからな、、、、。

うどんの店では、茹で釜の中に、
梅干しを入れたりして、
うどんの茹で溶けを防いでいる所もあるという。

さて、そばの場合はどうなのだろう。
そばは、茹で時間が短いから、あまり影響はなさそうだ。
でも、そうだろうか。
茹でる水によって、食感が変わるとか、
そういうことはないのだろうか。
まあ、今度試してみよう。

太い田舎そばなんか、
表面はぬるぬる、中はカッチンということがあるからね。

ちょっとしたことが、以外や以外、、、
ということがあるかもしれない。

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2007年3月16日 (金)

鹿児島はそば処、焼酎ばかりではない。

メールマガジンを読んで頂いている、
鹿児島の方からメールをいただいた。

実は、一月のメールマガジンで、
全国のそばの産地を紹介したのだが、
鹿児島県でも、生産量が高いと書いたら、
それについてのコメントをいただいた訳だ。

実は、鹿児島では、そばはよく食べられるらしい。
それが、どうやら、各家庭で作って食べることが多いらしいのだ。

なるほど、その点は長野県と似ている。
もっとも、長野では、自宅でそばを打つところは少なくなってきたが。

そばの生産量の統計をみると、十年ぐらい前までは、
鹿児島県は、北海道に次ぐ、二番目の生産量を誇っていた。
しかも、八月に採れる夏そばと、十一月に採れる秋そばと、両方作っているのだ。
最近は耕作面積も収穫量も減ってきているが、それでも、そば処であることは間違いない。

メールをいただいた方の話では、
年越し蕎麦などは、いくつかの知り合いの家庭で打ったそばをいただいたりして、それぞれに、太さや打ち方が違っていて、食べるのが楽しみだったそうだ。
「ぶつぶつに切れる」そばだったそうだが、それが当たり前だったという。

そういう、そばの食べ方が、伝わっているんだね。
きっと、そば汁も独特なものなのだろうなあ。

鹿児島は、けっこう国内を歩き回った私にとって、まだ、未踏の地。
すぐに焼酎とさつま揚げ(天ぷらと呼ぶらしいが)が頭に浮かぶ、ステレオタイプのこの頭。
「そば処」というイメージを叩き込んでおこう。

いつかは、訊ねてみる計画でもしてみよう。
ええと、地球儀を見ながらね。




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2007年3月15日 (木)

「蕎麦地蔵」というのもある。

前回に「そば食い地蔵」を紹介したが、
「蕎麦地蔵」というのもあるという。

場所は東京は、帝釈天で有名、
というより、
フーテンの寅の「男はつらいよ」で有名な、
葛飾、柴又にあるという。

こちらの起こりは、室町時代のお坊さん。
火事で焼けた高野山本堂の復興勧進のため、
つまり、お金集めのために、全国を回っていた。
ところが、歩けなくなってしまった。
今で言う「脚気(かっけ)」にかかってしまったのだ。

ある山の中で、村人たちから頂いたそばを水で溶いて食べていたら、
あら不思議、病気が直ってしまった。
そう、そばには、脚気を治すビタミンBが豊富なのだ。

以後、その坊さんはそばを食べるように、
人々に勧めて歩いたという。
そうして、たどり着いたのが、無住だった医王寺というお寺。
それから、代々、住職は、そのお坊さんの話を伝えてきた。

昭和の始めに、それを聞いた地元のそば屋さんの組合が、
そのお坊さんモデルとした地蔵尊を作ったのだ。
一時は盛大に信仰されたが、今では、そば屋さんも代替わりし、
訪れる人も少なくなってしまったとのこと。

そのお坊さんは、身をもって、そばが身体にいいことを証明したんだね。
そうして、人々に、「そばは長寿の食べ物」といって勧めたのだ。

たしかに、私のように「そば」を商売にしている者にとって、
ありがたいお話。
これは足を向けて寝られないぞ。
ええと、地球儀で、方向を確認して、、、、。

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2007年3月13日 (火)

善光寺の阿弥陀様は、そば好きだろうか。

お地蔵様というのは、広くこの世の人間を導いてくれる仏様として、多くの信仰を集めている。
つまり、何かあった時に、手を差し伸べてくれるというのだ。
例えば、病気とか、さまざまな苦しみを取り除いてくれるらしい。
なるほど、だから、ずいぶんとあちらこちらに、祭られているんだね。

その中に、そば好きの地蔵が居たらしい。

江戸時代の話。
浅草のあるそば屋に、夜になると、そばを乞いに現れる坊さんが居た。
主人は気前良く、そばを振る舞っていた。
しかし、毎晩のように来るので、不思議に思って、
ある夜、そっと、その坊さんの後をつけてみた。
そうすると、大きなお寺の境内に入っていくと、
一つの地蔵堂の前で、ふっと消えていなくなってしまったのだ。

その夜、主人の枕元にその坊さんが立って言う。
いかにも私は、あの寺の地蔵だと。
そば好きで、たっぷりそばを食わせてもらって有り難かったと。

びっくりした主人は、それから、その地蔵に、
毎日、そばを供えた。
その後、江戸には、疫病が流行って多くの人が苦しんだが、
そのそば屋の一家だけは、誰も病気にかからなかったという。

その話から、その地蔵は「そば食い地蔵」と呼ばれ、
そばを供える人の絶えなかったという。

この地蔵、本当にあるらしい。
浅草の寺は、関東大震災で焼け出され、
今は豊島区に移って、今でも、そばが供えられているという話だ。

へえ、こう言う話は、好きだな。
今度、東京へ行ったら、お参りしてみよう。

長野もお寺の多い町。
そば好きな仏様が、けっこういるかもしれない。

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2007年3月11日 (日)

毎日食べているけれど、(今のところ)飽きない。

私の子供の頃には、そば屋でいなりを出すところが、けっこうあったような気がする。
たまたま、私の行ったところがそうだったのだろうか。
今ではそういう店も、少なくなったようだ。
でも、そばつゆで炊いたいなりも、なかなかおいしいのだ。

Inari ということで、「手打ちそば屋 かんだた」では、いなり寿司を用意している。
中身はそば、、、、ではない普通のご飯。
そばの実と、刻んで干した大根の葉を混ぜたご飯を、そばつゆで炊いた油揚げの皮で包んでいる。

長野で売られているいなりは、一般的にすごく甘い。
だから、いなり寿司を敬遠する方もいらっしゃるが、かんだたのいなりは、それほど甘くないので、甘いのが苦手な方でも、召し上がれることと思う。

昔は、いなりといえば、各家庭の味が出たものだ。
どこかへ出かける、何か行事のある時など、前の晩に、コトコトといなりを煮たという。
この皮を作るのは、けっこう手間のかかるものだ。
今では、工場で作られた製品がスーパーなどに売られているから、そういうものを使われる方が多いのだろうな。

たくさんの食べ物のある今の時代。
いなり寿司なんて、もう、ごちそうと言えないのかもしれない。
でも、手間をかけて、気持ちをかけて作ったものこそ本物のごちそう。
各家庭の味を、引きついで頂きたいなと思っている。

ちなみに、いなりの発祥地は、某稲荷神社の門前だそうだ。
稲荷神社の神様の、きつねの好物の油揚げを使って作ったとか。
きつねって、本当に油揚げが好きなのかな〜。
でも、料理って、そんなちょっとした発想から生まれるんだね。

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2007年3月10日 (土)

税務署は見逃さない。

国会では、どこかの閣僚が、自分の政治団体の活動報告書に、虚偽の記載があるとされて、揉めている。
本来無料である議員会館を使っていたのに、「水道光熱費」として、年間507万円が計上されていたというのである。

やれやれ、また、そんな話か。

今は予算審議の時期。
本来なら、数十兆円のお金の使い道を審査するべきなのに、
たかだた、507万円のことで、つまずいている。

もちろんそれはそれで、由々しき問題。
しっかりと追求してもらいたい。
でも、国会で議論(?)するような問題だろうか。

日本の行く末はどうなるのか。
我々の生活はどうなるのか。
そういうことを、きっちりと話し合ってもらいたいのにね。

議員の方々、いったい国会を開催するのに、
一時間あたりどのくらいの経費がかかるかご存じなんだろうか。
しっかりと、原価意識をもって、職務に当たってほしい。
(昔、よく言われたけれど。)

Sinnkoku 折しも確定申告の季節。
こんな路地裏に隠れて営業していても、税務署は見逃してくれない。

毎年、今年こそは早めにやろうと思うのだが、やっぱりギリギリになってしまう悲しさ。
慣れない電卓片手に奮闘中。

なのに、あの腑甲斐ない国会のために、税金を払っていると思うと、なんともやるせないのだ。
もっとも、税金を払うだけ儲かっていればいいけれど、、、。

とりあえず、「水道光熱費」は507万円ということにしておこうね。

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2007年3月 8日 (木)

本末転倒のような、、。

ヨーロッパで流行ったという、日本人のジョークに、こんなものがある。

ある日本人が、観光旅行でヨーロッパを訪れた。
短い間に、たくさんの観光地を巡り、
そして帰っていった。
ある人が帰国した彼に訊ねた。
「ヨーロッパで、何を見てきたんだい。」
彼は、答える。
「それが、何も見なかったんだ。
 何しろ写真を撮るのに忙しかったからね。」

ヨーロッパの人たちにとって、団体で移動し、
写真を撮りまくる日本人の存在が、
奇異なものに写ったようだ。

写真は便利で素晴らしいけれど、
やっぱり、自分の目で、しっかりと確かめるのが、
本来の姿なのでろうね。

さて、そば屋でも、そばの写真を撮られる方が、けっこう多い。
昔だったら、店の技術を盗むつもりか、、、と怒った店主も居ただろうけれど、携帯電話にも、カメラが付いている時代、そんなことは言っていられない。

見ていると、なかなか、凝った撮り方をする方もいらっしゃる。
相方に、箸でそばを摘ませて、持ち上げたところを撮ったり、角度を変えて撮ったりと。
中には、そばを前にして、記念写真を撮りたいと、シャッター押しを頼まれる方もいる。

でもね、写真を撮っている間に、
せっかくのそばが、
みるみるツヤを失い、
伸びていってしまう。

せっかく、おいしく食べられるタイミングで出しているのにね。

「おい、あそこのそば屋のそば、どうだった。」
「いやあ、写真を撮るのに忙しくて、そばが伸びちゃったから、味が判らなかったんだ。」
というようなジョークが、
流行ることのありませんように。

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2007年3月 6日 (火)

今回は「ウグイス切り」

ウグイスというのは、かわいそうな鳥だ。
本来の自分とは違う鳥がウグイスだと思われ、
自分自身は日の目の当たらない存在なのだ。

梅の木にとまって、薄い黄緑色をした鳥。
あれが「ホーホケキョ」と鳴く張本人と思われてしまったのが、
ウグイスの不幸の始まり。
ウグイスは、スズメに似た、ごく地味な鳥。
人前にめったに姿を現すことはない。
それでもウグイスは、
自信を持って「ホーホケキョ」と鳴いていたのだ。

だけど、人の目など気にせぬ、
派手好きなメジロに、お株を取られてしまった。
ああ、あそこにとまっている鳥が、
あの、薄黄緑色の、愛嬌のある鳥が、
あの鳴き声の鳥に違いない。

そうして、本当のウグイスとは、
まったく姿形の違う鳥がもてはやされ、
ウグイス色などといって、
その「偽ウグイス」こと、メジロの色を、春の色ともてはやかしたのだ。

本日は恒例の「十割そばの夕べ」。
今回もたくさんの方に参加頂きありがとうございました。

今回は、梅匂う春ということで、「ウグイス切り」をご用意した。
そう、ちょっと薄緑色の、ウグイス色のそば。

Uguisu 写真ではよくでなかったけれど、
もう少しきれいな緑色のそば。
更級粉に、青マメのきな粉を打ち込んで作った。

きな粉は粒が荒いので、やっぱり、あまり細くはできなかった。
でも、きな粉が入ると、茹でた時に、とてもふくらみの多いそばで、なんだか量が増えたような感じ。
食べてみると、しっかりきな粉の味がする。
そばの甘味と相まって、またまた、不思議な食感となった。

「甘〜い」
「体に良さそう。」
などと、講評をいただいた。

それにしても、かわいそうなウグイス。
いまさらメジロ色なんて、変えられないだろうな。

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2007年3月 4日 (日)

そばは捏(こ)ねるのが基本。ごねてはいけないけない。

そばを捏ねるというのは、けっこう力のいるものだ。
体重をかけて、グイグイと捏ね上げる。
ちょうど、力の入るように、ちょっと低めに捏ね鉢を置いている。
えっ、体重が、、、じゃない身長が短い私に合わせてあるからだろうって。
そのとおり。
背の高い人が、ここでそばを捏ねたら、体を折り畳むようにしなければならないので大変なことだろう。
捏ね鉢も、のし台もすべて私の背丈にあわせてある。
だって、毎日の作業だもの。
そうして、私の身の丈に合ったそばを打っているんだ。

Sobatama そばは、しっかりと捏ね上げる。
表面がつやつやとして、ふっくらとするまで、ぎゅっぎゅっと捏ねるんだね。
ほら、おいしそうでしょう。

水まわしを終わって、そば粉を一つにまとめあげた時、その肌を、ちょっと高性能の虫眼鏡で見てみると、まだ、つぶつぶが残っていて、その間にすき間がある。
それが、捏ねていくと、そのすき間が無くなっていく。
でもね、まだ、つぶつぶのでこぼこが残っているんだ。
さらに捏ね上げていくと、表面がやっと、平らになってくる。
虫眼鏡で覗いて、つぶつぶの凸凹が無くなるまで捏ねるのだ。
そうすると、そばのほうでも、「もう延ばしてくれよ」と言ってくるのだ。

よく、そば打ちを覚えた人が、そばが切れてしまうというけれど、この捏ねの不足も一つの原因。
すき間の無くなるまで、しっかりと捏ねることが大切なのだね。

じゃあ、何回ぐらい捏ねるのかって、よく聞かれるけれど、それは、粉の状態、粉の量、水加減によって違うから、なんとも言えない。
私の場合は、一キロ玉であれば、百回以上は捏ねるのではないかな。
捏ねていると、ある時、ふっと玉の感触が変わってくるときがある。
なんというか、生地がふわっとした弾力に変わる瞬間があるんだね。
それから20回から30回ぐらい捏ねれば出来上がり。

これは、あくまでも、私のそばの場合。
それぞれの、状況によって、違うことだと思う。

最近は「荒挽き」のそばもはやって、ざらっとした感触を出すために、あえて捏ねあげないところもあるね。
まあ、それぞれの考え方があるのだろう。

でも、私は、よく捏ねられた、粉っぽくないそばが好き。
だから、今日も力まかせに、、、、いえ、気持ちを込めてそばを捏ねるのだ。

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2007年3月 3日 (土)

そばの胚乳の部分だけを使う。

さて、前回に引き続き、「更級(さらしな)」のお話し。

さて、私達が普段食べているご飯は白い。
これは、精米して、米の外側部分と、胚芽(はいが)を取り除いてあるからだ。
玄米というのは、この精米を行わないお米。
この玄米を炊くと、茶色っぽいご飯が出来上がる。

実は、玄米を食べたほうが、栄養的には優れているそうだ。
でも、外側の部分は、火が通りにくく、調理に時間がかかる。
そして、消化が良くないので、たくさん食べられない。
結果的に白米を食べたほうが、おいしいし、消化効率がいいようだ。

米の白い部分は、胚乳(はいにゅう)と呼ばれて、
本来は、芽として育っていく胚芽のための栄養を貯えてある場所だ。
ビタミンなどは少ないが、良質なでんぷん質に恵まれている。

そばの場合も同じで、胚乳の部分だけを挽き込んだ粉で作る「更級」は、
白い色をしている。
いわば、白米を食べているようなもの。
そばの香りはないが、やはりでんぷん質の多く含まれている。

普通のそばは、玄米や胚芽米を食べているようなもの。
そばの場合は粉にするので、米のように消化が悪いようなことはないし、
ビタミンや、タンパクが豊富に含まれている。
だから、これはこれで、そのまま食べればいいわけだ。

「更級」とは、そばを白米のようにして食べるそばのことなんだね。

昔は、臼で挽いて、最初に出てくる粉を一番粉と言って、
更級粉と同じように扱ったらしい。
製粉技術の発達した今日では、純粋に胚乳部分だけを取り出して、
粉にしているらしい。

でも、この「更級」の粉は、とても繋がりにくい。
かんだたでも、普通のそばと同じように、つなぎ粉を外二の割り合いで加えて打っているが、最初にお湯を加えている。
お湯の力ででんぷんがまとまるからだね。(アルファ化というらしいが)

Sarasina また、このそばは、茹で時間が短い。
ほんの十秒ぐらい。
だから、一度に何人前も茹でられないんだね。

そばの一番真ん中の部分を使うし、打つのに手間がかかるし、茹でるのにも気を使う。
まあ、ちょっと贅沢なそばなのかもしれない。

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2007年3月 1日 (木)

殿様が食べたので御前そばとも呼ばれた。

今、「手打ちそば屋かんだた」では、土曜日と日曜日には「更級(さらしな)」を用意している。

えっ、更級ってなあに、普通のそばとどう違うの、とよく聞かれることがある。
そう、見た目の違いは、色の白いこと。
この違いは誰にでもよく分かる。

よく、二八と十割と粗挽きなどと盛り合わせてある店があるけれど、
ちょっと外観だけでは、どれがどのそばなのか分かりにくい。
その点更級は、はっきりとしている。
白く、透き通った感じのそばなのだ。

更級は、そばの実の中心部分だけを取り出して粉にしたもの。
だから、いわゆるそばの香りはなく、デンプンが多いので、プッチリとした食感になる。

更級はそばの香りがしないから、ソウメンみたいで物足りないと言う人がいる。
実は私も、つい最近までそう思っていた。恥ずかしながら。
ところが、そば粉屋さんが、「こんな更級粉もありますよ。」と言って持ってきた粉に、はまってしまった。
何だ、この粉は。

色は白くはあるが、やや黄色がかっている。
そうして、甘い香りがするんだ。
自分で打ってみて驚いた。
へえ、こんな更級があるんだ。

ということで、ゆっくりされる方の多い土曜日曜に、このそばを打っているという訳だ。
更級は、「枯れた食通好みのそば」などと言われる 。
残念ながら私はまだ枯れていないぞ。誰だそんなことを言う奴は。
そばの世界は進化している。
「枯れない食通好み」の更級を、お試しあれ。

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